【坂の上の雲シリーズ】 日本海海戦のこと
 日露戦争の頃のお話。明治37年(1904年910月頃からを書く…
 旅順港にいたロシアの旅順艦隊と合流して日本の艦隊を壊滅するためにバルチック
艦隊はバルト海のリバウ港を出港した。当時では壮大な航海だった。
 出港したのが1904,10,15 アフリカ大陸を回って、マダガスカル島でスエズ運河を通っ
て来た小型船と合流したのが1905,1,9 だ。ここから旅順に向かう予定だったが、旅順が
陥落したことから、真っ直ぐ日本軍を蹴散らしてウラジオストックへ入港の予定だった。
 それによって、日本の制海権を脅かそうというもくろみだったらしい。
 5,14 バン・フォン湾(現ベトナム)を出港、一路ウラジオを目指す。しかし、日本はフィリ
ピンと台湾の間のバシー海峡付近で見失ってしまう。情報がつかめなかった。
 連合艦隊は当然対馬海峡を通過するものと考えていた。燃料の石炭が持つかどうかが
課題だったからだ。ここで、5,26 午前零時頃に石炭輸送船が上海に入ったと言う情報を
得た。大きな急炭はしないで、対馬海峡を北上する証だった。
 5,27未明、仮装巡洋艦「信濃丸」はロシアの病院船「アリヨール」を見つける。つまり
バルチック艦隊のど真ん中に自分がいたのだ。これで連合艦隊は位置をつかむことが
できた。
 5,27 朝、東郷は第一、第二、第三と全艦の出動命令を行う。この日は海が荒れており、
小型艦艇は出動できず、戦艦、巡洋艦計16である。有名な「本日天気晴朗なれども波
高し」はこの時の打電だ。13時39分バルチック艦隊を発見、戦闘開始を命じた。
 
この時バルチック艦隊はNEに進路を、連合艦隊はSWにむかえうっている。このすれ違い
では海戦にならない。そこで、すれ違いざま反転する戦法をとった。この敵前大回頭の10分
間は非常に危険で、全くの無防備、攻撃の出来ない時間だった。しかし14:05 旗艦三笠は
左に舵を切る。14:10 三笠は大回頭を終え、反撃に転じる。14:20 には全艦が回頭を終え、
バルチック艦隊と横一線に並ぶ。互いに激しく打ち合った…瞬く間に「スワロフ」が火災を、
「アレクサンドル3世」「ボロジノ」も傷つき、「オスラビア」も火災を起こした。この勝敗は30分
で決着がついたと言われている。スワロフのロジェストウェンスキー提督は人事不省の重傷
となった。15:07 にオスラビアが沈没、」「アレクサンドル3世」も火災中だった。
 19:18 夕闇の中攻撃を中止する。すでに「スワロフ」「アレクサンドル3世」「ボロジノ」「オス
ラビア」は沈没していた。残る「アリヨール」も傷ついていた。闇の中は小艦艇の活躍の場、
「ナワリン」を撃沈、「シソイ・ウェリキー」も大破、艦首部分を水没させながら翌朝降伏。
 翌朝10:00 「グローズヌイ」「ベドウィ」を拿捕、「アリヨール」も三笠に包囲され10:52 降伏。
 結局、バルチック艦隊の戦艦8隻を撃沈か降伏させた。が、まだ10隻ほどは残った。これら
は散り散りとなり、ウラジオストックに着いたのは3隻のみとなった。
 つまり、19隻が撃沈、2隻が自沈・座礁、5隻が捕獲、9隻が中立国で捕獲された。
 連合艦隊の損害は夜襲作戦に出た水雷艇3隻のみだった。

 この勝因は次の様に言われている。
1.連合艦隊は旅順要塞の陥落で一旦内地に引き上げている。艦艇の修理や乗務員の力を
  回復出来る時間があったし、心理的な余裕もあった。訓練もしっかり出来ていたし、砲弾の
  命中率が恐ろしく異なっていた。
2.逆にバルチック艦隊は長い航海で兵は疲弊し、訓練も出来ていなかった。
3.下瀬火薬が成果を出した。これは爆発力は弱いモノの確実に発火し、周囲を火の海にして
  しまう性質があった。
4.伊集院信管は敏感で不発になることが無かった。
5.艦の構造の違いが大きかった。ロシアの艦は乾舷が低かった。内海用の設計とも言える。
  この時期は波が荒く、小破して即浸水する艇が多かったと言われている。
6.長旅のバルチック艦隊は燃料(石炭)を多く積み込んでいて、トップベビー状態で、あり、
  戦闘に適しなかった状態だったのであろう。 これらの組み合わせが考えられる。

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