多田の歴史から

              多田の「三助とお菊」の話

三助とお菊

伝説の言われ
佐渡に農耕を伝えた「三助・お菊」の伝説です。
― 多田弁天岬に設置された看板より転載 ―
  多田弁天岬三助・お菊いこいの地 より
 
佐渡国の始耕・稲作りを教えた三助・お菊の伝
説は各地に残っている有名な伝記の一つです。
 土佐国(高知県)の永楽又兵衛という農夫の
倅 三助は継母にいじめられて佐渡へ流されて
きました。
 三助の実母は悲しみ、三助の遠流に先だっ
て、籾三升に鍬・鎌を持たせました。
 佐渡に着いた三助はやがて能登の国から流
されたお菊という女性に多田の浜でめぐり逢い、
二人は夫婦となり三助のもってきた籾をまいて
稲を育てました。
 これが佐渡の稲作の始まりいわれ、三助夫婦
がこの多田の地で巡り逢い、農耕をしたことか
ら、逢田といい、中古には大田となり、今は多
田となっています。
 多田沖田には夫婦の使った鍬・鎌を納めた塚
がありました。また多田の西北方に男神山、女
神山という二つの山が仲良く並んでいますが三
助、お菊をそれぞれ祀った山とされています。
 この地は佐渡七弁天崎の一つであり三助・お
菊が真夏に語り涼んだいこいの地といわれてい
ます。
        多田城址と松ヶ崎城址の話
多田城(旧畑野町多田字本城)
 
 畑野町の最南端、前浜と呼ばれる海
岸地帯の中間点辺りに多田港がある。
現在では、フェリーなどの便がないた
めに寂れてしまっているが、中世には
多田港は、交易の盛んな大きな港であ
った。その港を制圧するために置かれ
ていたのが多田城である。
 城山は比高100mほどあり、ちょうど
港を見下ろす位置にある。
 城主としては、羽茂本間氏に属した
本間但馬という者の名が伝えられてい
る。
 松ヶ崎城(旧畑野町松ヶ崎字相馬屋敷)

  松ヶ崎中学校の東側で、浦川の東北側
 の標高80mの山上にあった。山上には
 小規模な4郭と腰曲輪などがあり、山林、
 畑地となり、郭、空堀、土塁を残すとい
 う。海に臨んだ番城であったと思われる。
  松ヶ崎の集落は岬上のいかにも漁村と
 いった風景である。
  この左手背後の山が城址となる。
  麓には村社があり、そこに「松ヶ崎駅
 跡」の標柱が建っている。
  この地は北陸街道の要衝であった。

             日蓮ゆかりの本行寺

 鎌倉を追放された日蓮は文永8年、寺泊
から乗船、対岸の佐渡松ヶ崎村「こうのせ」
に着いた。着船した地には本行寺が建立さ
れている。着船した日蓮は浜近くの山裾に
あった大欅の空洞で一夜を過ごした。現在
もお欅として大事に保存されている。
本行寺の境内には「龍燈の松」という大木
があった。
上人が渡海のとき、龍神がこの松の梢に
明かりをつけて着岸の地を示したのだとい
う。

本行寺
             大欅(おけやき)について