国際港新潟の歴史と現在 新潟港は昭和42年(1967)に外国貿易の推進に特に重要な港として、日本海側で初めての特定 重要港湾に指定された。日本海側の中心的港である。 新潟港は古代以来の信濃川河口に位置する西港と、新潟市東方約20kmの阿賀野川、加治川間 の海岸を掘りこんだ東港(昭和44年開港)とを含んでいる。 西港は10世紀前半に編纂された「延喜式」に「蒲原津」として名を残し、越後の中・下越地 方を後背地にもつ港であった。この湊から租税などの官税を、敦賀を経て京まで運ぶ港として 利用された。 戦国時代には、上杉景勝が新潟港から兵糧米を敦賀に送った記録もある。 日本国内の全国的交易ルート・西廻り航路の重要な港として発展したのは江戸時代に入って からである。 元和2年(1616) 掘直奇が蔵王城主(長岡市)となり、新潟町を統治すると、彼は新潟港の出 入港税や商人の営業税などを免除して港の発展を促すなど新潟湊町形成と成長の礎を築いた。 寛文12年(1672) 河村瑞賢が幕府の命で西廻り航路を開設、新潟がその寄港地になると、北 は松前(北海道松前郡、松前郡松前町)から瀬戸内を経て、大阪、江戸などを結ぶ航路の中で、 商品流通を担う港として発展した。 元禄10年(1697)には、新潟港への入港船は3,500隻、移出入物の総額は100万両にも達してい た。 幕末の安政5年(1857) 日米修好通商条約の締結により、開港場5港の一つに指定され、明治 元年(1868)正式に開港した。 その後、新潟港は信濃川河口の右岸に港湾機能が集中し、第二次世界大戦後のめざましい 経済発展による移出入量の増大により、新潟東港が建設され、94万トンのタンカーの入港が 可能となった。東港は現在、国際コンテナ航路として、釜山、中国、東南アジアを結ぶ週11 便の船舶が入港、輸出量95万トン、輸入量は1241万トン余りまで貿易量が拡大した(平成21年 度)。 新潟港は東南アジア各国を結ぶ、東北アジアの物流の拠点として発展を続けている。 * 「新潟県 謎解き散歩 新人物文庫」より |