<NOSC 歴史から学ぶこと>

   壇ノ浦の戦い

 元暦2年(1185年)3月24日。 関門海峡の壇ノ浦にて、源義経(27歳)率いる源氏軍と平宗盛(39歳)らが率いる平氏軍
による最後の水上戦が繰り広げられた。この時の船の数が平家500艘、源氏700艘といいますので、死者の数は5000人を優
に越すのではないかと思われる。
 戦闘は朝6時頃から始まった。
 当初は海戦に慣れた平家がもう後が無い必死さも手伝って押していたが、昼頃潮が速くなりだすと平家と源氏の船がいた
るところで接触。接近戦になって源氏は次第に挽回してきた。
 義経は伊予の河野水軍や紀伊の熊野水軍などを味方につけ、源平の争いの趨勢はほぼ決まったかのようであったが、平氏
は長門の彦島に本拠地を置き、最後の決戦に臨んだ。開戦当初は潮の流れが平氏側から源氏側に流れていたため、戦況は
平氏に有利に展開していった。しかし、午後になると潮の流れが逆になり、源氏側から平氏側に流れ始めた。このために形
勢は逆転し、ついに源氏側の勝利で幕を閉じることになる。 
 
この史実は誰もが良く知っていることと思われる。
これをNOSCらしく、海の常識から考えてみる。
関門海峡は狭いうえ潮流が早く、潮の干満により潮流の向きも変わるという特徴
がある。午前に始まった合戦は、開戦直後は激しい東流れの潮流を利用した平
家が優勢に進めると、不利を悟った義経が掟破りの平家水軍の非戦闘員の水手
・梶取を射させる戦法に出る。
平家方に混乱が生じ、源氏が優勢に変わると、源氏方へ裏切る者も相次ぎ、
昼近くに潮の流れが西に変わると攻勢は完全に逆転し、平家は壊滅状態とな
った。 まとめると…
 ・瀬戸内海→響灘(日本海)へと海流が変わる時刻が勝敗を分けた。
 ・操船する水手・梶取が軍勢の中心となる海戦。その主役を弓で射った。
  (義経の卑怯な戦術:この時代は)
         
ぜひ、海上保安庁のホームページ
沿岸域情報提供システム(MICS)ミックスから
潮流・潮汐情報をご覧下さい。→
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/moji/kinkyu.html
この海峡の海流の方向と速さが大きく表示された
モノを見る事が出来ます。例えば[ E 5 ]とか
ありますが、東に5Kn で流れてます…と言うこと
なのですね。大体、5〜10kn 程の速度と言われて
います。また上の文章は「平家物語」,「吾妻鏡」
「愚管抄」や「百錬抄」など「壇ノ浦の決戦」か
らでした。