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私たちがお世話になっている新潟港は開港し て140年が経っている。 かつては北前船や大陸との交流で賑わった 港であるが、今は静かな西港である。 物流の拠点として日本海側の中核国際港湾 であり、期待されることは大きい。しかし、今1つ 思うような港に発展しないでいる。 河口港、飛行機の進入路としての問題も大き いとされている。 また、物流拠点の東港との役割分担もあり、基 本的な港作りのポリシーを求められている時期 と言えよう。 |
その1つは朱鷺メッセ、みなとぴあ、万代シティ等々をそれぞれ結びつけた観光やイベントの核と なるような視点もあろう。船旅を掘り起こした旅客のターミナルとしての重要な役目も担って欲しいモノ である。 韓国〜ロシア〜新潟間の「日本海横断フェリー」の新設には期待したい。 識者は重要な事は港の整備の遅れから来る、入港待ちや片荷(帰り荷不足)等を指摘する。港湾 というハード面だけでなく、流通システムというソフト面の不備も緊急に対策を練らなくてはならない のであろう。 集荷能力の向上、輸出企業の増加等地元の活性化と共に海上輸送の利便性を誰もがこの時代だ から再認識してかからなければならないと思うのだ。 港にかかわる観光やイベントの大切さ、新潟港や海上輸送の利便性については市民一人一人に アピールできるのも私たち海好きの者の役割ではなかろうか。 大きな事はできないが、楽しんで利用している新潟港とかかわりの強い私たちに課せられた問いか けのように受け止めるべき問題であろう。 (結論が先に来てしまった。このことは以下、新潟港に関する資料をご覧いただくことで一層高まるも のと理解している。このページの内容を基に議論が盛り上がることを期待したい。) 1.新潟港の将来性 太平洋中心の物流から日本海へとシフトしている現状がある。中国、ロシア、韓国を初め東アジ アの経済発展が根底にあり、ヨーロッパへのつながりも見れば、世界経済の動向から重要なことで ある。 2.新潟港の色づけ 信濃川の自然と歴史、古町を初めとする柳都、万代シティ、朱鷺メッセ、みなとぴあ…等々の観 光色の向上 旅客輸送の港(佐渡汽船、新日本海フェリー、韓国ロシアとの日本海横断航路、水上バス、観 光船…) 3.新潟港の問題点 「沖待ち」船が04年から増加中。大型岸壁、ヤードの不足から。コンテナ扱い量の著しい増加も ある。 港に隣接する高速道、鉄道の連携も整備の必要はあろう。 経済的に豊かな新潟を目指すなら世界的な企業の増加と物流の増加であろう。その根幹は陸空 と整備されつつある新潟に海運を高め、強力なネットワークを整備することである。 4.新潟港の現在 06年の新潟港の扱いは16万TEU(20フィートコンテナ)を越え、今も確実に増えている。(独断であ るが、1TEUを約20tと考えると、320万トンと理解したい。) しかし、05年の資料によれば、シンガポール42,300万トン、上海55,370万トンであり、さらに20年 を目指して10倍を越える扱いになろうとしている。 |
新潟(港)湊の推移 「沼垂津」 <日本書記 大化3年(647年)>に渟足柵として名があるが、港として機能していたかは 不明。荘園の年貢を積み出す場となっていたのではなかろうか。 「蒲原津」 <延喜式 延長5年(927年)>にその名がある。当時、桟橋や岸壁が整わず、自然の地形 にそって碇泊していたと考えられる。 「蒲原津の争奪戦」 建武2年(1335年)に小国氏(南朝方)がここ蒲原津に城郭を構える。 加地景綱(北朝方)は松崎から沼垂へ進出。この年は蒲原津の攻略に失敗。 建武3年に再度攻撃、北朝方のものに…翌4年には小国氏は再度蒲原津を取り戻 している。(小国氏は直江兼続の弟が後を継ぎ、上杉家へと… 別項でまた) 南北朝争乱後は守護 上杉氏の管理下になった。 「新方の湊」 1500年代戦国時代となり対岸(信濃川左岸)に新たな港が出来る。これが新潟港である。 「新潟港開港」 明治元年(1869)11月19日開港する。 補助港 佐渡夷港と連絡する「新潟丸」(鉄製蒸気船)が5年に建造される。 信濃川流末工事(明治29年)が行われ、河口東西に突堤が設けられた。 ウラジオストックへの直航便(1907〜1912)も出来たが振るわなかった。 「新潟港の築港」 大河津分水の再開(1907)を機に築港が具体化した。 鉄道接続、倉庫装備など近代的な埠頭の建設に着手。難航する。(〜1926) 埠頭完成は実に昭和6年(1931)までかかった。 「新潟〜北朝鮮航路」 昭和4年(1929)に航路が開かれる。満州国への重要航路と指定される。 月山丸、満州丸等の大型船が就航。 「機雷による港機能の喪失」 昭和20年 「戦後の新潟港」 港浚渫、導流堤の設置、石油・木材の荷役などで復興した。 北朝鮮帰還船の受け入れを行う。 特定重要港湾に昭和42年指定される。 昭和50年代は導流堤が撤去され、佐渡汽船が万代島に移転。 昭和60年以降万代島の再開発が進められている。 「新潟東港の建設」 新潟港の一部として新潟工業港の建設が昭和38年(1963)から始まる。 後、時代の変化と共に、機能分化が進められ、現在に至っている。 (原稿途中でアップすることにしました。資料の指摘をお待ちします。なお、新潟港の歴史について 「みなとぴあ」のホームページに詳しく書かれてますので、そちらをごらんください。URLは http://www.nchm.jp/ です。) |