源 平 藤 戸 合 戦 略 記
【現地案内板より】 寿永3年(1184)旧暦12月   (東鑑ーあずまかがみ)  
 源頼朝の命により、平氏討伐の為西下した範頼の率いる源氏は、日間山一帯に布陣し、
海を隔てて約二千米対岸の藤戸のあたりに陣を構えた平行盛を主将とする平氏と対峙し
たが源氏には水軍が無かったので渡海出来ず平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対
してもただ切歯扼腕悔しがるだけであった。
  時に源氏の武将、佐々木盛綱かねてより「先陣の功名」を念かけており、苦心の末一
人の浦男より対岸に通ずる浅瀬の在りかを聞き出し、夜半、男を伴って厳寒の海に入っ
て瀬踏みをし、目印に笹を立てさせたが他言を封じるため、その場で浦男を殺し海に流
した。
  翌朝盛綱は、家の子・郎黨を従え乗出し岩の処より海へ馬を乗り入れ、驚く味方将兵
の騒ぎを尻目に、大将範頼の制止にも耳を藉さず、目印の笹をたよりにまっしぐらに海
峡を乗り渡り、先陣庵のあたりに上陸し大音声に先陣の名乗りを上げるや敵陣目指して
突入し、源氏大勝の端を開いた。盛綱は此の戦功により、頼朝より絶賛の感状と児島を
領地として賜った。
  海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に之を敢行した盛綱の壮挙は一世
を驚嘆させ永く後世に名声を伝えられる事となった。
【現在】
 倉敷川に盛綱橋が掛かっている。この上流一帯が「平家物語」や謡曲「藤戸」で知ら
れている源氏の武将「佐々木盛綱」が渡海先陣で功名を挙げた源平藤戸合戦の古戦場跡
で、多くの伝説・史跡を今に伝えている。
 当時はこの一帯が海で、今山になっているところが島だったと言われている。
 源平合戦と言うと屋島の合戦、壇ノ浦の合戦が有名であるが、この争いの決着をつけ
たのは事実上、この藤戸の合戦である。

 さて、ここからは雑談の様なモノである。
 橋のたもとに藤戸饅頭という饅頭屋がある。これは佐々木盛綱に殺された村人の霊を
永さめるために供養を藤戸寺で行ったが、その時に民家からまんぢゅうが供えられた。
これが藤戸まんぢゅうの由来だという。ぜひお土産に買って欲しいのだ。買って帰って
蓋をあけると、本物の竹の皮に包まれているのが分かる。盛綱橋を訪れた時のお土産に
していただきたい。

 浦の男と佐々木盛綱…源平合戦後日談 
 謡曲というのは「能の謡い」の事を言う。逆にいえば能は謡曲に合わせて舞うのだが、
謡曲「藤戸」は有名である。執念物のひとつと言えよう。
 「源平藤戸合戦」(1184年)で平家陣に一番乗りを果たした源氏の武将佐々木盛綱が、
恩賞にもらった児島の地にお国入りを果たした。そのおり盛綱に海峡の浅瀬を教え、手
柄を立てさせながら殺されてしまった漁師(浦の男)の母親が現れ、恨み言を述べる。
 我が子を返せ、戻してくれ…と泣き叫び転げまわる老女を前に、盛綱は当時の模様を
白状し詫びるのである。
  そうして漁師のために盛大な法要を営んでいると、またも、漁師の亡霊が現れ、再び
恨み言を言う筋だ。世阿弥元清(1363〜1442)の作と言われる。
 この能を見た、時の将軍足利義満が感激して、漁師が沈められたという「浮き州岩」
をわざわざ都へ運ばせたという話、能に詳しかった豊臣秀吉がその岩を聚楽第の庭に据
えた(後に京都醍醐寺三宝院へ)という話が残っている。→「藤戸石     
 今流行の心霊スポット(?)→笹無山
 心霊スポット探索 源平藤戸合戦で渡海先陣の偉効をたてた武将のかげで、名もない
老母の嘆きをこの小山は秘めている。
 浜で思案している佐々木盛綱に、瀬戸の海を自分の庭のように熟知している浦の男が
いた。彼は老いた母と二人で暮らしており、盛綱の求めに応じ、一条の浅瀬があること
を教えた。同行してくれれば褒美をとらすとの盛綱の言葉を信じ、海中に入り、目印の
笹を立てながら先になって案内した。それなのに彼は再び帰ることが出来なかった。
 彼の口から浅瀬を他の武将に語られるのを恐れた盛綱は、無慈悲にも人知れず斬り捨
てて海中に沈めたのである。
 このことを知った老母は半狂乱となり、佐々木と聞けば笹まで憎いと笹をむしり取り、
恩を仇で返した盛綱の残酷な仕打ちを呪った。老母の怨念が宿ったのか後の世まで、こ
の小山には笹が繁ることはなかったという。→「笹無山

--戻る--